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三河の住人の庵

三河の住人の庵

長篠・設楽原合戦前夜

長篠・設楽原合戦までの奥平家の姿を描いていきます。(2011.09.20~

 「表裏比興の者」という言葉があるそうである。
真田昌幸を指して秀吉が言ったという、
煮ても焼いても食えないやつ
というくらいの意味だそうである。

昌幸は生き抜くために次々と主君を変えた。
武田氏が滅んだ天正10年には5回も主君を変えている。
武田~織田・滝川~北条~徳川

われらが奥平貞勝・貞能親子は7回も手を組む相手を変えた。
43年の長い期間ではあるが こちらも相当食えないやつらである。

奥平の領地 作手は 群雄の境界地であった。
北に武田、東に今川、西に織田。
南は松平・今川領・徳川と変遷。

弱小豪族にとって一族郎党を守り抜くためには
どの勢力に着くかが最大の仕事であった。

享禄3年(1530)19歳の貞勝は父貞昌と共に松平清康方で宇利城攻撃に加わる。
天文11年(1542)小豆坂の戦いには今川方として織田信秀の軍勢と戦う。
弘治元年(1555)今川義元に叛き織田信長に通じる
弘治2年(1556)雨山の戦いに 嫡男貞能20歳が援将として今川軍と戦う。
        こののち貞勝は 今川離反の首謀者であった日近定直を討ち取り
        今川に帰参した。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いには 嫡男貞能が今川方松平信康の与力として参戦。
        義元の死により三河の豪族は今川家を離脱するものが多かったが 
        貞勝・貞能は なおも氏真のもとに留まり続けた。
永禄6年(1563)松平元康は今川と絶ち名を家康と改める。
永禄7年(1564)ついに 貞勝・貞能も氏真を見限って松平に付いた。
元亀元年(1570)貞勝。貞能親子 姉川の合戦に徳川方で参戦。
元亀2年(1571)武田信玄が三河侵攻開始。武節、足助を下し下山から
        作手に上がり奥平の亀山城を落とす。
        新城に下り 野田を攻め吉田を脅かして甲府へ帰る。
        田峯・長篠菅沼が武田に降り奥平貞能も降る。
        このとき 奥平より貞能次男仙丸、日近奥平定直娘おふう、
        萩奥平勝次2男虎之助を武田方へ人質として出す。
元亀3年(1572)三方原合戦には 貞能 武田方として家康軍と戦う。
元亀4年(1573)1月から2月 野田城攻めに武田方で参戦。開城降伏させる。

ここまで43年間 松平・今川・織田・武田・徳川の間を生き抜いてきた。
しかも臣従ではなく同盟関係であった。
元亀の頃 作手奥平の軍勢は150騎。武田方では上位に位置づけられていた。
敵にしては厄介、味方にすれば頼もしい存在だったからこそ可能だったのである。

元亀4年2月
   野田城攻めのあと 武田軍は突如 甲斐に向かって引き返した。
   信玄上洛の道筋にあった 家康、信長は疑心をいだいた。

7月 家康は長篠城を攻めた。さぐりを入れたのだ。
   武田の救援軍には 奥平貞能の姿もあった。
   が救援を待てず 8月 城主菅沼正貞は降伏開城してしまった。

   奥平貞能はいちはやく信玄卒の確証を掴んだ。
   情報を浜松の家康に送った。<撒き餌である>
   家康は信長に相談した。

8月 <鯛がかかった>
   家康から貞能宛に書状が届いた。武田を離れれば
  (1)家康長女を 貞能嫡男貞昌に嫁す。(2)所領安堵 
  (3)新知行3千貫を与える

8月 貞能・貞昌 作手亀山城を退散 額田郡(岡崎市)宮崎の滝山城に入る。
   この時 貞勝は武田方に残ることを主張 甲斐に移住した。

   家存続のため 貞能・貞昌は徳川方へ 貞勝・仙丸は武田方へと
   別れたのであろうか。

   額田郡(岡崎市)宮崎の久保城で元亀元年秋 奥平諸将は秘かに集まり
   一族の存続を図るために 武田方と徳川方の両方に分かれて
   付くことにした(久保城の密談)と地元では伝えられている。
   <傍証とするには ちと年代があわないのだが> 

   貞勝は この後武田滅亡後 ひそかに滝山に帰り隠棲した。
   文禄4年(1595)84歳で没。




























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